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ピケティ『21世紀の資本』について

20世紀前半から後半にかけての資本主義世界の変転過程を大まかにおさらいすることから始めます。

巨大な株式会社の形態で主として重化学工業を発達させてきた日米欧の列強資本が、過剰資本の投資領域を拡張しようと世界分割戦争を繰り広げた20世紀前半の資本主義世界の特徴は、自国内で過剰資本を吸収できるだけの有効需要(ここではとりあえず、投資と消費と政府支出と純輸出の総量としておきましょう)を創出しきれなかったことに起因するものでした。

第二次世界大戦後の世界では、金融と産業を繋ぐ金融資本の組織性が耐久消費財を中心とする重厚長大型設備投資を実現していくという経済システムへと変転し、更に米国を中心とする資本主義世界の協調路線・通商拡大路線が安定的な国際通貨体制とともに米ソ冷戦構造を支える政治経済秩序とされ、米ソを二極とする相対的安定性が維持された力の均衡状態を基礎にして先進諸国の安定的な高度成長がもたらされました。

当時は、米ソ冷戦の真最中。冷戦下での巨大な軍事費支出は、生産能力の過剰を吸収する有効需要を創出し、派生的産業技術によって耐久消費財の多様化・高度化をもたらし、他の先進諸国の回復成長を助長することに繋がりました。国際政治の歴史では極めて珍しい二極による相対的な安定性が維持されることによる稀な「平和」な時代を迎えたのでした。

その一方で、先進諸国の耐久消費財中心の高度成長過程で、第三世界の諸国の経済はモノカルチャー化され、単一の一次産品輸出に特化され、不利な交易条件で停滞を極め、政治経済的混乱が反復される状況が常態化しました。先進資本主義諸国はというと、ケインズ主義的政策によって完全雇用の維持と福祉の充実が第一義的課題として認識されてくるようになります。

しかし、ケインズ政策では慢性的なインフレを抑えることが困難であることが主としてシカゴ学派から非難され、米国や英国では、1980年代のレーガノミクスやサッチャリズムに見られるように、サプライサイド経済学やマネタリズムに基づく緊縮的財政金融政策によるインフレ沈静化、公企業の民営化が断行され、それにともなう労働運動への攻勢、情報技術の進展並びにそれを利用したオートメーション化による非正規労働者の増大、企業の多国籍化による途上国低賃金労働者の利用拡大、労働力商品の供給制限、労働者の所得上昇の抑制ための法制度再編が、主として財界や米国の意向を忖度して推し進められて行きました。

労賃コストを大幅に圧縮して自己金融化傾向を強め、過剰設備を抱えがちになったことが金融の投機的バブルに動員されやすい累積資本を生む土壌が形成されて行きました。そんな中で米国は、ドルの国際通貨特権のために国際収支赤字を積み重ねても経済が維持できる地位を享受する一方、主要諸国はドル債権を外貨準備として蓄積して行きました。こうした大きな枠組みのもとで、金融の中心とその周辺との非対称的関係が固定化され恒常化され拡大化されました。

現実資本を貨幣資本の蓄積のグローバルな再編を基礎として反復されてきたバブル崩壊による金融危機は、これまでの恐慌やインフレ恐慌とは異なり、産業的現実資本の過剰蓄積や利潤率急落に起因する貨幣信用恐慌とは必ずしも整理できない“異常性”を露呈させてもいます。

ところで、数年前に日本でもベストセラーになったトマ・ピケティ『21世紀の資本』は、格差拡大に関する歴史的実証が資本主義批判を提示してくれているのみならず、当時の安倍晋三政権における“アベノミクス”なる経済政策の否定にも繋がるとの理由で、多くのメディアから歓迎されました(日本経済新聞の論調は微妙でしたが)。他方で、高度累進所得課税税に関する国際協定をというその提案は、国家の主権を軽視するものとしてのグローバリズムの延長に立つ議論だとの非難をも招きました。

数年前にこの書が江湖に出された際、私自身も手に取って一読したところ、所々同意しかねる主張も散見され、また論証が必ずしも成功していない点など気になる点を抱えた書であったことは記憶していますが、同時にやはり学ぶべき内容はあります。

巨大な“格差社会”になりつつある米国で評判をとったというのは理解できますが、こと“格差”という点からすれば、少なくとも実証のレベルでは、まだ“格差社会”という状況であるかは些か疑問符が付く日本でも多くの読者に迎え入れられたというのですから、驚くべきことではあります(もっとも、相対的貧困率の点で見るならば、日本社会において明らかに“貧困層”が増えてきていることは確かでしょう。ただ、この現象は“格差”が拡大した帰結としてではなく、むしろ日本経済の長期低迷傾向の結果、“現役世代”への分配が傾向的に低下していった反映であると見る方が合理的ではないかと思われます)。

ピケティによれば、資本収益率(r)(=利潤率)は長期に及んで約5%の安定値を保っているとのことです。それに比べて、経済成長率(g)は1%程度のあたりに留まっています。資本分配率(rK/Y)の上昇は、資本(K)と国民所得(Y)との比率(K/Y)が増大しているからというわけです。資本分配率(rK/Y)の変化率においてrが一定なので、それはすなわちK/Y比の変化率に等しい。また、K(資本)はおおよそrK(利潤量)に等しいので、資本にとっての格差拡大率は(r-g)>0となり、「r>gならば格差拡大」というピケティの経験則が帰結します。

この辺の消息を若干補いますと、こういうことです。資本分配率(rK/Y)の変化率は、Δr/r+ΔK/K-ΔY/Yで表すことができます(Δr、ΔK、ΔYはそれぞれの増加分を表します)。一般に、ΔY/Yは経済成長率(g)で表され、ΔKは主として資本資産rKから来るので、そうすると、Kが消去されてrだけが残ることになります。ピケティの言うように、利潤率が5%で安定していることが正しいとするならば、rの変化率Δr/rは0になり、資本分配率は(r-g)は正になる。r > gが成立する仕組みになっていると言うわけです。

もっとも、これだけだと当たり前の計算の問題です。事実、そう指摘する理論経済学者も多くいます。少なくとも『21世紀の資本』を一読する限りでは、何故そうなるのかについて論理的にきれいに導出することに成功しているとは言えません。むしろ、過去300年間の統計的なデータを列挙することによってその主張の正当化を図ろうとしているかに見える。この点が、理論経済学者からの評判が意外に芳しくないことの理由になっているのかもしれません。

この点もピケティはほとんど説明していないのですが、K/Y比が上昇し続けるとはどういうことなのか。おそらく、“資本使用的な(capital-using)技術革新”が続いたという歴史的経過が見られたということであり、逆に労働への需要は歴史を通じて弱く、その失業圧力のせいで労働分配率が低下し続けたということなのかも知れません。

先述の通り、利潤率はなぜ5%あたりで一定しているのかについても、ピケティは論理的に一言も説明していません。単に過去300年間の統計をとった場合、そうだと言うに過ぎない。ここから先について、ピケティは何ら言及していません。私は経済的不平等の問題に関する経済学的アプローチに知悉する者ではないので断言は慎みたいのですが、“素人の戯言”を言わせてもらえば、利潤率を一定に保とうとする価格“政策”や販売“政策”並びに金融“政策”が独占・寡占の企業の側にあったと見ています。どういうことか?つまり、以下のようなメカニズムが働いているからだろうと推察されます。

労働生産性はY/Lで表されます。Y/L=Y/K×K/Lですから(K/Lとは資本装備率のことです。要するに、労働者一人当たりにあてがわれる装備)、資本Kの値は大きくなると、Y/Kは下がるのに対してK/Lは上がります。多くの場合、両者が“相殺”される形でY/Lは変わらなくなる。資本装備率が上がれば失業圧力は強まるか、もしくは賃金の上がり方は抑制されることになります。

経済成長率gは、労働生産性Y/Lと人口増加率との積で表されるとすると、gの値にはあまり変化が見られず1%あたりで抑制される長期的傾向があるのに対して、利潤率rは独占・寡占の価格政策・金融政策で4~5%に推移しているということなのでしょう。

価格政策の面に関しては、それが貨幣現象である限りは、財務省や中央銀行の貨幣供給のあり方も議論に乗せないことには、単に市場の傾向の歴史的・統計的実証で済ますピケティの方法は不十分であるとの批判もありうるでしょう。況や、資本使用的な技術革新のせいで生じる失業圧力のことについて言えば、その余剰労働を公共活動へと引き込み、国家の公共的な基盤や骨格を形作るのは公的セクターの仕事でもあります。その全体に関する歴史的考察を抜きにして、「r>gとなるので格差拡大は必然である」と論定するのは早計に過ぎるように思われます。
とはいえ、この事態を放置し続けると相当歪な社会構造となっていくとのピケティの警告そのものは確かであろうと思われます。但し、その対処法が国際的な高度累進課税制度の一律的導入という結論に対しては、多くの異論の余地があるようにも考えられます。しかし、分厚い専門書が一般読者にまで広範に迎え入れられたという現象自体、現代社会への不満の現れと解釈できるのではないでしょうか。

色々と問題含みの書物でありますが、本書では豊富なデータがこれでもかというほど列挙されており、資本主義の歴史を俯瞰する上でためになる書物であることは間違いありません。理論的新規性や論理的緻密さに優れた書物であるかは疑問なしとしないが、そうした欠点を補う長所もあります。自分の投資行動が、歴史的に全体的にどういう意味を持っているのかを一歩下がった地点から見つめなおすことで、投資に関しても新たな発見が得られるかもしれません。