(承前)
近代私法の支柱をなす原則に、契約自由の原則や所有権絶対の原則があります。これら原則は、現在も理念としては生きていると言えますが、しかし現実的には、所有権による非所有者に対する支配が契約自由を有名無実化したり、絶対とされてきた所有権もその社会的作用を金銭債権にとって代わられ、独立の存在すら失われようとしています。
そもそも、所有権とりわけ不動産所有権が支配的地位を占めてきたのは、その物のもつ利用価値ゆえでした。しかし、資本主義経済組織の下における所有権の主たる作用は客体たる物を物質的に利用することではなく、これを資本として作用させて利得を収めることです。所有権が資本としての作用を営むためには債権契約と結合することが必要であり、その結果として、かつては物権に到達するための手段にすぎなかった債権が、物権に対して寧ろ優越的な地位を占めるに至りました。
しかも債権は、債務者から給付を受けることによってのみその経済的目的を達し得たところ、次第に債権は対価を得てこれを第三者に譲渡することによってもその目的を達し得るようになり、債権はそれ自身独立した財産性を備えるようになりました。
この財産性を最も強く有する債権が金銭債権です。更に金銭債権は、担保制度を利用することによって企業を構成する動産・不動産所有権を制約し、また金銭債権はその優れた流通性ゆえに集中化が容易であり、やがては全組織を支配する力を備えるに至ります。企業者間に行われてきた自由競争経済が、徐々に銀行資本と産業資本との緊密な連繋による現代資本主義の特徴をなす集中過程を通して最も高度かつ抽象的な現象形態の金融資本による独占的支配が進行していった資本主義経済の歴史を顧みれば明らかなことです。
所有権とは、直接的かつ排他的に物を自由に使用・収益・処分する全面的支配権を持つ権利ですが、近代法における所有権は現実的には、その主体の現実的支配の有無に関係なき客体の観念的帰属すなわち物に対する支配可能性という観念的関係として理解され、所有者であるために現実的に所有物を支配している必要はありません。
資本主義経済下での所有権の最も主要な作用は、客体にあたる物の物質的利用にあるのではなく、これを資本として利用し利得を収めることにあり、それゆえ必然的に、各種債権契約と結びつくことになります。所有権は一面で利用権能を分離させつつ同時に、他面で価値権を分離させつつあります。所有者は、客体を自ら利用あるいは他人に利用させると同時に、客体の担保価値を他人に与えて信用を獲得します。
現代社会における所有権の主要対象は、①不動産、②商品、③生産設備、④金銭の4つです。担保の機能は、その発生の初期においては債務者にとって主観的価値の大きいものを提供させ債務者に対する間接的強制によって弁済の確保をはかるのが常でした。
しかし今日では、強制手段としての担保は消費信用の面において僅かに残るだけで、専ら担保物の交換価値を把握することで成立しています。
このことは、不動産抵当において顕著です。重要なことは、不動産抵当の重心が所有者の金銭借入から資本の金銭投資に移りつつあり、所有者がその所有不動産を担保として金銭を借入れるためには、その需要に応じて金銭を貸付ける者が必要ですから両者は常に表裏一体をなします。
ところが、専ら特定目的のために必要な金銭需要に応ずるのための担保制度が、金銭借入から金銭投資の対象にシフトしつつあります。この傾向に対応して、抵当証券・流通抵当・土地負担とった抵当権の流通確保のための諸制度が考えられるようになりました。
占有型担保の典型である質権の役割は低下して行き、非占有型担保の典型である抵当権が担保物権の中心的地位になりました。動産においても然り。船荷証券・貨物引換証・倉庫証券等の証券制度の発達は、動産担保においても従来の消費信用を目的とするものから資本の需要に応ずることを目的とするものに制度の中心が変遷していきました。
金銭は一般的に流通機能・決済機能・価値保存機能を持っており、一定量の交換価値の担い手として等質的であり、それゆえ量的差異が存するだけで質的差異はなく、物としては個性を欠く観念的・抽象的存在です。この点で、金銭は、他の動産・不動産とは全くその性質を異にします。
金銭は、それ自身において抽象された価値を表現するもので、金銭の所有は直ちにその表示する価値の所在を示しますから、金銭を現実に支配し占有する者は価値の帰属者と見なされ、それゆえ自己が所有している金銭が、法律上の理由なくして他人の手に移った場合に金銭に対する観念的所有に基づき物権的請求権を行使してその返還を求めることはできません。
金銭所有者は、利息を得るためにこれを貸付け、あるいは利益の分配を求めて投資します。貸付けられた金銭は、一定期間後に一定の割合によって計算された価値を増殖させて回収されます。しかし、投資にあっては、これと異った形をとります。すなわち株式形態で投下された金銭の利子率は予め確定されておらず、その企業に対する利益分配請求権という形で存在するにすぎません。
株式会社制度は、他人資本を自己資本と擬制して集中させるので、資本の返還請求という資本所有権に基づく経営に対する制約はなく、しかも他人資本を自己資本と擬制した以上、出資者に当然認めなければならない経営権は多数株議決制によって事実上奪うことができます。株式の流通制確保によって出資者は、常に容易に自己資本を回収しえます。出資者は企業利潤の分配を受けるから、金銭所有者はより有利な投資をなすために競って利潤の多い株式会社を求めて殺到する結果、株式の売買価格は高騰し、利回りは金銭貸付による利子率にまで低落します(企業者利得の利子化現象)。
株式配当は資本所有に基づくものでありながら、その所有は生産機構から分離され、単純な貸金債権者が受取る利子の外観を呈し、株主は金銭債権者と何ら異るところのない存在となります(資本所有者の金銭債権者化)。
資本主義経済の発展にともなう私法の変遷過程という大局から俯瞰するならば、物権から債権への重心の移行、そしてその債権が証券に化体され流通性が増し、金銭債権の純粋化すなわち金融化傾向は、不動産にとっても避けて通れない必然的な過程なのです。
さて、そうした大局から不動産を捉えることによって、何が見えてくるのでしょうか。この点につき、はっきりしていることとおぼろげにしかわからないことが混在しています。今はその時代の過渡期です。その意味で、不動産ビジネスは今後ますます面白い展開を見せてくれることは間違いないでしょう。この点を常に見据えた事業を展望している会社なのか、それとも旧態依然とした事業しかできない会社なのか。生き残れるのは、もちろん前者であることは言うまでもありません。