ジョージ・ソロスの“錬金術”?

著名な投資家ないしは“投機家”として知られるジョージ・ソロスが自著や講演で頻繁に言及する人物と言えば、母校ロンドン・スクール・オブ・エコノミクス(LSE)在籍時に私淑した20世紀を代表する科学哲学者カール・ポパーですが(学位論文の指導教官もポパーであり、ソロスはそこで哲学の博士号を取得しています)、その次に持ち出される人物が、これまた20世紀を代表する経済学者の一人であるジョン・メイナード・ケインズです(この他に頻繁に言及されているのは、社会学者ロバート・マートンくらいでしょうか)。

ケインズは、“ケインズ経済学”として知られる、マクロ経済学の確立に貢献した学説で世界に大きな影響を与えた経済学者ですが、元々は、26歳で夭折した数学者兼哲学者兼経済学者フランク・ラムジーとともに哲学と数学を学びつつ、名著として評価されている『確率論』の著者としても知られています。

しかし、当時のケンブリッジ大学には、才能の塊のような数学者の卵が数多くいたこともあって、早々に数学者の道を諦め、インド省及び大蔵省の官僚としてのキャリアを積みながら、徐々に経済学へと関心を移して行き、人類史に多大な影響を与えることになった経済学書『雇用・利子および貨幣の一般理論』を著しました(興味深いのは、ケインズ自身、制度上体系立った経済学を修得した経験がないということで、この点につきオーストリア学派のフリードリヒ・ハイエクが嫌味を残しています。とはいうものの、そのハイエク自身も経済学で博士号を取得したわけではなく、彼の学位は法学博士のはずです)。

この『一般理論』の第12章には、投資行動を参加者が最も人気のある選択肢になる人を推測しなければならない“美人投票”の比喩に準えて説明した箇所があり、この“美人投票”ないしは“美人コンテスト”の話は、我々の投資行動を説明する文脈で盛んに持ち出されています(中には、明らかに原書を読まずに、方々で流通している誤解をそのまま紹介している本やネット情報があるので、ご注意ください)。

この“美人投票”の比喩は、様々な経済学者や投資家の著作ないしは講演で取り上げられおり、ジョージ・ソロスも盛んに、著書や講演の中で、この“美人投票”の比喩を持ち出します(ソロスは、その他にも、マートンの“自己実現的予言”や“バンドワゴン効果”などの話を好んで用います)。この“美人投票”の比喩は、経済学理論や金融理論についての理解を深めるだけでなく、具体的な投資行動について的確に言い当てている側面があるので、投資一般に関心を持つ人々にとっても興味深い示唆を提供してくれるでしょう。

少し迂回しますが、ここで、現在の経済学の理論において有力な二つの大きな理論的枠組を粗雑であることを承知で、整理しておきましょう(マルクス経済学については、ここでは触れないでおきます)。その二つの大きな理論的枠組とは、新古典派経済学の考え方に基本的に依拠する主流派と、その欠点を指摘するケインズ経済学の考え方に依拠する学派です(“新古典派総合”と呼ばれるポール・サミュエルソンの経済学は、両者の“折衷”、悪く言えば“いいとこ取りのパッチワーク”と呼べるかもしれません)。

現在の経済学の主流派をなす新古典派経済学に依拠する経済学者は、自由放任主義による「神の見えざる手」(理論的には、レオン・ワルラスから始まり、ケネス・アローやジェラール・ドブリューによって数学的に精緻化された一般均衡理論として体系化されました)に依拠します。その理屈からすれば、価格は、不完全情報による誤謬なり認知的バイアスなどによって揺れ動くことはあっても、ある決まった“適正価格(均衡価格)”へと必ず収斂して行くとするものです。

要は、高過ぎれば買われず、買える程度の価格に下がっていくし、逆に安過ぎればすぐに売れ切れてしまうために相応に高くなっていくので、ちょうどよい価格に落ち着いて行くという考えです。そして、各人が余計な干渉を受けずに自由にかつ利己的に振舞えば(この“利己的”には、暗黙に“経済合理的”という含まれています)、価格はあたかも“神の見えざる手”に導かれるかのように、最適な水準の価格に着地するというわけです。

そうすると、バブルのような現象をどのように合理的に説明するのか。なぜなら、“神の見えざる手”による導きによって最適価格に均衡するようには見えないからです。理論的には起こるはずのない現象だから、「馬鹿による例外的な現象だ」と、まともに説明される事象から外されてしまいます。しかし現実は、バブル現象は確かに存在するし、過去にも存在したし、おそらく将来も発生することでしょう。

対して、一般均衡理論が必ずしも妥当しない場合があると考えるのが、ケインズの経済学です。誤解すべきではないのは、ケインズは、一般均衡理論そのものが馬鹿げた理論であると考えていたわけではなく、それが成立するのは、ある特殊な条件が満たされた時に限るのであって、全体化することはできないというわけです。ケインズの“美人投票”の比喩を盛んに持ち出すソロスは、ケインズと同様、一般均衡理論を全面否定するわけではないけれど、同時にその欠点を強調することに余念がありません(ちなみに、ソロスは効率的市場仮説にも異を唱えています)。

先述の通り、ケインズは『一般理論』を執筆する前に『確率論』を著しています。この書は、確率論の数学的側面のみならず哲学的な側面をも有する著作であり、ケインズはこの頃から『一般理論』まで、“不確実性”のある状況における意思決定という難問への関心に貫かれていました。金融市場での投機行動によって利殖活動を成功してきたジョージ・ソロスの関心にも共通するものがありました。

但し、ソロスの思想に最も影響を与えたのは、先述の通り、カール・ポパーという20世紀を代表する科学哲学者でした。ソロスの学位論文の査読者でもあったポパーの『科学的発見の論理』や『推測と反駁』そして『開かれた社会とその敵』に決定的な影響を受けたソロスが金融市場に適用される自らアプローチを構成する3つの原則が、①可謬性、②再帰性、③不確実性の原則です。ソロスの著作『[新版]ソロスの錬金術』(総合法令出版)は、その題が放つ胡散臭いイメージに反して、極めて示唆に富み、かつ通俗的な投資本のような安直さとは程遠い優れた書物であり、その前半部分を使ってソロス自身の思想である“再帰性理論”の詳細を説明しています。

その内容は、科学哲学や認識論をある程度理解していないと至極難解と受け取られるかもしれません。しかし、ソロスが金融市場へのアプローチとして、この“再帰性理論”を根拠にしていることから、その投資行動の原則を見ていく上でも、ソロスが世界をどう認識しているのかという原理的なレベルにまで遡行して考えることは決して無意味ではないように思われます。

最初の①可謬性とはどういう意味かというと、こうです。世界の中へ参与する者が置かれている実在の状況と参与者の世界認識が完全には一致することはないし、参与者である我々が個々の事実の知識を得ることができたとしても、世界についての理論を構築したり、全体的な見解を形成することになると、我々の視点が偏っているか矛盾しているか、またはその両方であるというものです。それが、可謬性の原理です(可謬性とは、ものすごく大雑把に言うならば、我々は誤り往々にしておかす存在であるという程度の意味だと受け取っておきましょう)。

これを金融資産の市場価格についての我々の認識の話に置き換えるとすると、金融資産の市場価格がその基本的価値を正確に反映していない。価格は、市場参加者の将来の市場価格に対する期待を反映しています。更に、市場参加者は、誤謬から免れません。その結果、将来の収益フローの割引現在価値に対する参加者の期待は、現実から逸脱する可能性が高い。ソロスは、自身のこの考えについて、可謬性を認めない効率的市場仮説と直接矛盾していると主張しています。

次に重要な概念は、②再帰性です。再帰性の概念については、更なる説明を要するでしょう。ソロスは思考の参与者と世界との認識論的・実践論的関係において2つの機能を取り出します。一つは、我々が住んでいる世界を理解することです。これをソロスは“認知機能”と呼びます。もう一つは、世界に影響を与え、参加者の利益を促進すること。ソロスはこれを“操作機能”と呼びます。この2つの機能は、参加者の思考(主観的現実)と実際の状態(客観的現実)を双方向に結びつけます。“認知機能”では、参加者は受動的な観察者の役割に位置づけられます。因果関係の方向で言うならば、世界から主観です。“操作機能”では、参加者は積極的な役割を果たしています。因果関係の方向で言うならば、主観から世界へです。どちらの機能も、その過程で誤りが生じやすい類型的リスクを抱えます。

どういうことか。認知機能と操作機能の両方が同時に作動すると、互いに干渉する可能性が生じます。ソロスは、こういう言い方をしています。すなわち、従属変数の値を決定するために、必要な独立変数の各関数を取り出すと。一方の関数の独立変数は他方の従属変数であるため、どちらの関数も真に独立した変数を持っていないということになります。

もちろん、認知機能が単独で作動した場合、操作機能からの干渉なしに知識を生み出す可能性はあります。事実確認的な命題によって表されるものの大半はそうでしょう。命題が事実に対応する場合、それは真理の対応理論(論理学における真理の対応説です)が教えてくれるので、言明は真です。しかし、操作機能からの干渉がある場合、言明は操作機能によって影響を受けるため、“事実”とされるものは実は独立した基準として機能しなくなります。

ソロスが挙げる例として、「雨が降っている」という命題を考えてみましょう。その言明は、実際には雨が降っているかどうかに応じて真または偽です。そして、人々が雨が降っていると信じているかどうかは、事実を変えることはできません。エージェントは、操作機能からの干渉なしに言明を評価し、知識を得ることができます。

では、「愛してる」という文を考えてみましょう(敢えて“命題”と言わない点に注意)。この言明は再帰的であるとソロスは言います。なぜなら、言明を発する人の愛情の対象に影響を与え、受取人の反応は、その後、彼または彼女の元の言明の真理値を変更し、言明を出す人の感情にさえ影響を与える可能性があるからです。要は、それが自らにフィードバックしているのです。

その結果、認知機能はエージェントが決定を下すために必要な全ての知識を生成することはできません。ということは、我々は不完全な理解に基づいて行動しなければなりません。操作機能は世界に影響を与えることができますが、結果が期待に対応する可能性は低い。意図と行動の間にはいくらかのスリッページがあり、行動と結果の間に更なるスリッページがあります。エージェントは不十分な知識に基づいて決定を下すため、その行動は意図しない結果をもたらす可能性があります。これは、再帰性がエージェントの世界観と参加する世界の両方に不確実性の要素を導入することを意味します。

認知機能と操作機能の間の“再帰的フィードバック・ループ”は、信念と事象の領域を結びつけています。参与者の意見は影響を及ぼすが事象の経過は決まらず、事象の経過は影響を及ぼすが参与者の見解は決定しない。互いの互いに対する影響は、連続的で円形です。それがフィードバックループに変えるものです。認知機能と操作機能の両方が誤謬にさらされるため、信念と事象の両方に不確実性が持たらされるというわけです。ソロスは、次のように主張しています。

「金融市場はファンダメンタルズを受動的に反映するのではなく、将来の収益フローに影響を与える可能性がある。この点、行動経済学者は再帰的過程の半分にしか焦点を当てず、認知的不協和は資産の誤った価格設定に繋がるのに、誤った価格設定がファンダメンタルズに及ぼす影響に関心がないのだ」。

金融資産の誤った価格設定が、いわゆるファンダメンタルズに影響を与える可能性のある経路は様々です。最も広く使用されているのは、レバレッジの使用を伴うものであり、債務と株式レバレッジの両方です。例えば企業は、少なくともしばらくの間、株式発行によって1株当たりの収益を改善することができます。市場は常に正しいという印象を与えるかもしれませんが、職場のメカニズムは優勢なパラダイムによって暗示されているものとは大きく異なるのです。

最後に、③不確実性の原則です。これは①と②を結合した場合に出てくる結果ですので、①と②に置かれる重要性のウェイトとは異なります。要は、①と②から導出できる派生的な原則と言い換えることもできるでしょう。ソロスがこの不確実性を敢えて第三の原則に据えたかははっきり述べていませんが、その文脈から推測することはできそうです。

不確実性は経済理論が“無時間的な”一般化として扱うものを“時間に制約された”歴史的プロセスに変えます。エージェントが完全な理解に基づいて行動するならば、均衡は金融市場の普遍的かつ無時間的な状態から遠く離れています。市場は、それに向かうのと同じくらい推定均衡から離れる傾向があるかもしれません。普遍的かつ無時間的ではなく、均衡は主観的な期待が客観的現実に対応する極端な条件になります。理論的には、このような対応は、認知機能または操作機能自体によってもたらされる可能性があります。認識は実在の状況に合わせて変化するか、知覚が知覚に合うように実在を変える行動につながる可能性があります。

しかし実際には、このような対応は、2つの関数間の再帰的相互作用の産物である可能性が高い。経済学は均衡を正常で実際に必要な状態と見なしているのに対し、ソロスはそのような安定の時期を例外的と考えているようです。

ソロスは、この①可謬性、②再帰性、③不確実性の3つの原則に基づいて金融市場にアプローチする見方を提供していますが、その具体的な内容については、①~③に基づく様々な“フィードバック”のループの分析の箇所と、その応用編である後半部分で触れられています。それを一つ一つ説明することは紙幅の関係上無理ですので、是非とも本書を手に取って一読されてはいかがでしょうか。

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