コスパと破滅回避

最近、日本社会では「コスパ」という言葉を耳にする機会が多くなってきました。「コスパ」とは、コスト・パフォーマンスの略語だそうです。

かけた費用に対してどの程度の利益が得られたかを示す度合いという意味に使われています。例えば、「この商品は、コスパがいい」だとか、「この店、コスパ悪いよね」とか。

もちろん、この「コスパ」なる言葉は昔からありましたし、それが経済学でいう費用便益分析(Cost-Benefit Analysis)の通俗化された表現くらいの意味を持っていたことは知られていました。

事業を展開するにも、投資をするにしても、この費用便益分析を無視することはできません。収益不動産投資でも、投資家なら誰もがやる投資分析としてお馴染みの概念です。その意味では、不動産投資において必ずおさえておくべき考え方であることは確かでしょう。

但し、注意しなければならないことは、費用便益分析が通用しない場面があるということです。そうした費用便益分析が使い物にならない場面について深く思考している一人が、(本コラムでも度々登場する)世界的ベストセラー『ブラック・スワン-不確実性とリスクの本質(上)(下)』(ダイヤモンド社)などの著者として知られるナシーム・ニコラス・タレブです。

タレブは、その後に著した『身銭を切れ-「リスクを生きる」人だけが知っている人生の本質』(ダイヤモンド社)において、面白い言葉を残しています。

「あなたが何かを本当に“信じている”かどうかは、あなたがそれに対してリスクを冒そうとしていることによってのみ明らかになります」。

次のような思考実験があります。第一の実験では、100人がカジノに行き、それぞれが無料で振舞われるジントニックを飲みながら一定の金額をベッドするとしましょう。当然、負ける人もいれば勝つ人もいます。そうすると、一日の終わりに“エッジ”を推測できます(“エッジ”または“ハウスエッジ”とは、ゲームの賭金に対する平均損失割合のこと)。戻ってきた人の残額を数えるだけで収益を計算でき、カジノがオッズを適切に設定しているかどうかを判断することができるからです。

サンプルから、ギャンブラーの約1%がバーストすることが計算でき、プレーを続ければ、ほぼ同じ比率、つまりその時間枠でのギャンブラーの1%がバーストすると計算される状況の下で、ギャンブラーNo.8がバーストしたとします。さて、ギャンブラーNo.9はギャンブラーNo.8が破産したことの影響を受けるでしょうか?もちろん、影響はありません。

第二の実験はこうです。ギャンブラーNo.1が、100日連続でカジノハウスに行く予定で、残念ながら8日目にバーストしてしまいした。では、9日目はあるでしょうか?もちろん、ありません。

人々のアンサンブルから算出される成功確率は、ギャンブラーNo.1には当てはまりません。なぜか?この2つの実験で登場する二つの確率は、異なる種類の確率概念だからです。タレブの表現を拝借するならば、一つは“アンサンブル確率”と言って、集団における確率です。もう一つは“時間確率”、すなわち一人の人間の時間推移に関連する確率です。

この表現は、統計力学でお馴染みの“エルゴード仮説”における重要概念である“アンサンブル平均”と“時間平均”から想を得たタレブ独自の概念です(ちなみにタレブは、元はヘッジファンドのクオンツ兼トレーダーで、現在はマーク・スッピッツナーゲルが主宰するヘッジファンドUniversa Investmentsの科学顧問兼ニューヨーク大学教授兼作家の自称“フラヌール(怠け者)”という変わり種。米ペンシルバニア大学ウォートン・スクールMBA、仏パリ大学Ph.D.)。

先程の二つの実験の例を使うとこうなります。カジノにおけるギャンブラーの破産確率が1%という仮定でした。つまり、カジノを訪れるギャンブラーの100人に1人が破産し、残りの99人は無傷という具合です。これは、集団における確率すなわち“アンサンブル確率”です。

これとは別に、1人のギャンブラーが100回カジノに通い続けた場合に係るのが“時間確率”です。1人のギャンブラーが100日カジノに通い続けた場合、例えば8日目に破産が訪れます。9日目以降の日々は、無傷では済まない(100日を終えてギャンブラーが無傷で立っている生存確率は、ほぼゼロです)。

もっと単純化して言うと、“100人がカジノに行くこと”と“1人が100回カジノに行くこと”の違いです。平均して100人のプレーヤーのうち1人が破産した場合、第一の実験では影響はありません。各プレーヤーは個別にプレーしています。第二のケースでは、プレーヤーは破産前に特定の回数に到達するだけで、それ以上プレーできなくなります。したがって、人々が平均収益について話す時はいつでも、人々が個人的にプレーしたり投資したりすることや、順序が重要であることを一般的に考慮していないわけです。

ダメ押しに、カジノのよりも極端なロシアン・ルーレットを例にとりましょう。カジノの実人々のアンサンブルが100万ドルでロシアン・ルーレットを1回プレーするとし、6人のうち5人が金を稼ぐとします。単純化された費用便益分析を使用した場合、その人はショットあたりの期待平均収益が833333ドルであるため、83.33%の利益の可能性があると主張することでしょう。しかし、ロシアン・ルーレットを2回以上プレーした場合は、墓地に辿り着くことになりそうです。期待収益は…、そう計算不可です。

この“アンサンブル確率”と“時間確率”を混同すると、必ず手ひどいしっぺ返しを食らうとタレブは警告を発しています。“時間確率”が破滅と係る場面では、早晩破滅は訪れるから、破滅が不可避であるならば、それが訪れる順序を少しでも遅くできるよう行動した方がよい。何かで成功するには、最初に何とか生き残る必要があり、それを行うには、破滅のリスクから身を守る必要があります。

ともかく、あるアンサンブルが与えられた際の、一回の試行に対して与えられる確率(アンサンブル確率)と、長期間の時間を通したある人の一回の試行に対して与えられる確率(時間確率)とは意味が異なるという点について、タレブは、数理ファイナンスの学術誌に寄稿した論文で論じているだけでなく、一般書である『身銭を切れ』の後半部分においても触れています。

そこで、タレブはこう断言しています。

「重要なのは順序であり、破滅の可能性があるところでは、費用便益分析がまるきり無意味になる」。

この話を、長期的な収益を期待する投資を推奨する資料を読む際の注意として用いることができると思います。その資料で掲載されている彼ら彼女らの予測が正しかったとしても、“アンサンブル確率”と“時間確率”を混同していたとすれば、その投資家は早晩、市場から退場せざるを得なくなる可能性が大きい。100万ドルのロシアン・ルーレットのゲームの平均収益は833,333ドルだとしても、大規模な破滅リスク(つまり、死あるのみ)があるため、この賭けをする人はほとんどいないはずです。

90歳を超えてもなお現役の投資家として活躍し、「オハマの賢人」として著名なウォーレン・バフェットは、以前にリスクをとるビジネスで生き残った人は誰でも「成功するには、まず生き残る必要がある」ことを心得ていると述べていました。投資手法がまるきり異なる別の投資家ジョージ・ソロスも「勝負をする際には、まず生き残れ!ということをモットーにしてきた」というようなコメントを残しています。

観察された過去の確率が将来のプロセスに適用されない場合、平均概念に基礎を置く従来の費用便益分析が意味を持つ場面は極めて限定的であって、生き残りのための破滅リスクの回避ないし遅延のためには、“アンサンブル確率”と“時間確率”が一致しないのならば、観察された過去の確率が未来の過程に適用されるとする前提を置いて行動することは破滅リスクを高めると言えるので用心せよということかもしれません。

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