スイスの不動産、あるいはジャン=リュック・ゴダールの死

9月に入って、世界中の誰もがその名を耳にしたことのある人物が亡くなりました。8日には英連邦の君主であった女王エリザベス2世の崩御があり、13日には映画監督ジャン=リュック・ゴダールが自殺幇助での死を選択したとの報が世界中を駆け巡りました。

大部分の報道では「フランスの映画監督」として紹介され、フランスのマクロン大統領もNous perdons un trésor national, un regard de génie=「我々は、国宝、天才の視線を喪失してしまった」と、あくまで「フランスの」至宝としての扱いをしていましたが、そもそもゴダールは、フランスとスイスの二重国籍取得者であったはずです。そうすると、正確には「フランスとスイスの映画監督」と言うべきでしょう。

それはそうと、ゴダールに関して、難解さが際立つ中期以降の作品に対しては好みが真っ二つに分かれる映画作家でしょうが(多くの人には、同じフランス・ヌーベルバーグの作家でも同時期に活躍したフランソワ・トリュフォーの作品の方がとっつきやすい?)、しかし紛れもなく、映画史の中で屹立した偉大な天才として後世もなお記憶され続けるに違いありません。

しばしば難解な映画作品の典型としてその名が持ち出されるのが、アラン・レネ監督『去年マリエンバートで』でしょうが(映画の中で登場するゲームを何度もやってみたことを覚えていますが、ゴダール作品の難解さはそれとは少々異質なものであるように思えます。脚本を書いた作家アラン・ロブ=グリエのシナリオを読めば、正確極まりない緻密な構造が見えてきます。

それに対して、例えば、『新ドイツ零年』は、ベルリン国際映画祭金熊賞を受賞した『アルファヴィル』にてレミー・コーション役を演じたエディ・コンスタティーヌが再びレミー・コーション役として登場する驚きこそあれ、これでもかというくらいヘーゲルやリルケのテクストからの引用の雨を降らせるばかりで、退屈ささえ催させるもので、仮にヘーゲルの『歴史哲学講義』や『精神現象学』を閲してある程度の前提知識を持ってしたとしても、「なんじゃこりゃ?」とのため息しか漏れないという難解さなのです(浅田彰・松浦寿輝『ゴダールの肖像』での『新ドイツ零年』を褒める言葉も、勢いどことなく白々しさを覚えるのは私だけでしょうか)。

米国のハリウッド制作の映画が大衆消費社会の進展と軌を一にして世界を席巻する中で、そうした流れに背を向けて独自の進展を遂げていたヨーロッパ映画でも、ゴダール作品の特異性は際立っていました。その特異性は、真の傑作『アンナ・マグダレーナ・バッハの日記』のストローブ=ユイレ(ジャン=マリー・ストローブとダニエル・ユイレの夫婦)のそれとも違うもので、この両者はそれぞれがヨーロッパ映画の可能性の極北を行く好対照な映像作家であったように、小生意気にも思っていました。

日本の溝口健二監督を尊敬していたゴダールは、訪日時に京都の満願寺にある溝口健二の墓に参るほどのミゾグチ・フリークとして知られ、初期の代表作である『気狂いピエロ』のラストシーンがよく持ち出されます。

主人公フェルディナンを演じるジャン=ポール・ベルモンドが顔にペンキを塗りたくりダイナマイトを体に巻きつきて自殺しようとするも、我に返ってダイナマイトの導火線に着火した火を消そうとしたが失敗して爆死。カメラが崖から海へとパンし、アルチュール・ランボーの詩集『地獄の季節』に収録されている「永遠」という題の詩が流れるシーン(細かいことですが、Une saison en enferを文字通り訳すならば、「地獄での一季節」であって、「地獄の季節」ではありません。とはいえ、ランボーやヴェルレーヌの詩に入れあげ、東京帝国大学仏文科卒業論文「人生斫断家アルチュル・ランボオ」で日本のランボー理解に決定的な影響を与えた小林秀雄の訳がそのまま使われているのは、ある意味小林秀雄の偉大さの反映なのかもしれません)。このラストのシークエンスは、カメラのパンして行く方向こそ逆ですが、溝口健二監督『山椒大夫』のラストへのオマージュです。

ともかく、『勝手にしやがれ』や先述の『気狂いピエロ』、『アルファヴィル』そして、過度に政治的になりジガ・ヴェルトフ集団を結成する直前に撮られた『中国女』や、熱狂さめた後に商業映画に復帰して撮られた『カルメンという名の女』、『フォーエバー・モーツアルト』などの傑作は、世界中の映画関係者やシネフィルに強烈な影響を与えたことに違いありません。

そのゴダールですが、確か自宅はスイスのジュネーブ近郊のレマン湖畔にあったはず(あくまで私の記憶が正しければの話ですが)。そのスイスの不動産の外国人による購入には一定の制限が付されています(無防備にも、外国人がほぼ自由に国内の不動産を購入できるのは日本くらいなものです)。スイスにおける外国人による不動産取得に関するスイス連邦法(コラー法Lex Koller)では、外国人によるスイスの居住用やその他非商業用不動産の取得を制限しています。

コラー法は1960年代に制定されたものですが、その立法目的は、外国人ないし外国資本によるスイスの不動産購入を規制し、以ってスキーリゾートなどの乱開発や自然破壊ないしはリゾート地の不動産価格高騰を避けることでした。これまでに何度も内容が修正されており、居住用不動産に関しては、外国人は主にアルプスに隣接する地域とレマン湖畔の特定リゾート地に指定されている別荘のみ取得することができるそうです。

ここでいう「外国人」とは、居住者または海外に住む個人や、スイスに一時的な居住者として居住しており、EU / EFTA加盟国の国民でもなく、有効な永住許可証の所有者でもない者で、本拠地が海外にあったり(外国人によって経営・支配されているかどうかに関わらず)、外国人によって経営・支配されている場合であったりすれば、法人も「外国人」として扱われ、不動産取得の制限が課せられます。

不動産の直接購入に対する規制ばかりに目が行きがちですが、コラー法は外国人が不動産を事実上支配する取引にも適用されます。借地権や購入権の付与及びその行使や買戻権や融資の付与も規制対象です。したがって、共同所有形態のコンドミニアムの所有権や不動産の借地権・使用権や、法人による株式取得、事実上不動産の取得が目的である投資手段の取得(投資ファンドを含む)は、規制される「不動産の取得」に含まれます。

世界中の富裕層がこぞって集まる傾向にあるスイスでは、ただでさえ世界一の物価と言われる状況下での普通のスイス国民のマイホームも、規制下でありながら価格上昇が続いています(ごく普通の住宅でさえ、現在の1スイスフラン=148円の為替レートなら、1億5000万円くらいの金額)。もちろん、外国人によるスイス不動産投資が全く不可能であるというわけではありませんが、日本不動産に対する外国人による投資のハードルと同じように考えるわけには行かないことは確かです。

まったく関連性のない話でしたが…。

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