アナキズムを信奉する文化人類学者で、『負債論』(以文社)や『ブルシット・ジョブ-クソどうでもいい仕事の理論』(岩波書店)など、その著書の一部が邦訳されている、名門ロンドン・スクール・オブ・エコノミクス(LSE)教授のデービッド・グレーバーが一昨年、旅行先のイタリアのヴェネチアで亡くなってからちょうど2年が経ちました(ちなみに、LSEは、戦後日本を代表する経済学者である故森嶋通夫教授が長く教鞭を執っていたところで、著名な投資家ジョージ・ソロスの母校で、博士号を取得したところとしても知られています)。
グレーバーはニューヨークのアクティビスト界隈ではもちろんのこと、ウォール街でもその名が知られていました。そう、“ウォール街を占拠せよ!運動(Occupy Wall Street Movement)”の中心的人物の一人として。ちなみに、先に触れたジョージ・ソロスは、この運動の賛同者の一人でした。米国社会にアンフェアな状況が固定化しつつあり、それは米国社会衰退の温床になることへの憂慮からだと思われます。
もっとも、「ウォール街を占拠せよ」運動に対して、ウォール街の面々が驚愕し恐怖したということではありません。そもそも、これまでウォール街に拠点を置いていた大手金融機関は、実質的な拠点を別の場所に移し始めていましたし、ヘッドクォーターたちは毎日ウォール街に通うわけではなくて、マンハッタンから列車で1時間ほど場所にあるコネチカット州グリニッジ辺りの丘陵地帯に構えた邸宅で過ごしながら、月に数日ウォール街まで足を運ぶ程度という人もいました。
“We are the 99%”と書かれたプラカードは、所得上位1%の者が米国の富を独占し、その富にモノを言わせて米国政治をも動かしている現状に対する異議申し立てという象徴的意味で使われていましたが、米国在住者の年間個人所得上位1%内に入るのは150万ドル以上の者。とはいえ、別にこの層がホワイトハウスや連邦議会に影響力を行使しているわけではありません。実際に力を持つのは、トップ0.1%ないしは0.01%以上の、キャピタルゲインだけで年間数億ドル以上の個人所得がある者であって、この層の政治献金の金額は桁違いに高い。
専門家ではないので、断言は慎みますが、ここ数年間にもわたる米国の政局の混乱や世論の分裂は、米国社会におけるエスタブリシュメントに対する疑念が、米国民の相当な範囲で蔓延していることに起因しているように思われます。皮肉にも、その先鞭をつけたのは、どちらかといえば労働者の利益を代弁する立場にあるはずの(あくまで共和党と比べて相対的にということですが)民主党のビル・クリントン政権による政策でした。この頃に、米国社会の格差拡大に拍車がかけられました。
2016年の大統領選挙において、ヒラリー・クリントンの方が、ドナルド・トランプよりも圧倒的に富裕層から政治献金を受け取っていました。民主党予備選で敗北したために民主党統一候補にならなかったバーニー・サンダースを熱狂的に支持していた学生は、民主党であってもヒラリー・クリントンだけは御免蒙りたいとして、逆にドナルド・トランプに投票したという者もいたくらいと報道されています。
2016年の米大統領選挙において、民主党予備選での旋風を巻き起こしたバーニー・サンダースにしても、共和党のドナルド・トランプにしても、いずれもが“アウトサイダー”同士で、アンチ・エスタブリッシュメントに共感する者たちの支持を受けていました。サンダースは民主党の予備選直前まで民主党員ですらなかった社会主義者ですし、トランプにしても民主党と共和党を行ったり来たりで、これまた予備選直前に共和党員になっただけの人物(政治献金の総額だけでみると、共和党よりも民主党の方に多く献金していました)。
こうした傾向は、英国でも感じ取ることができました。2016年と言えば、“ブレグジット”を巡る国民投票が行われた年。ちょうど私は英国に在外研究のため滞在していましたので、この時の雰囲気を鮮明に覚えています。イングランドと異なり、スコットランドでは、一般庶民レベルでも離脱反対派が多数を占めていました。
会食の席では、当然このブレグジットをめぐる問題が話題の大半を占め、大学関係者はほぼ揃ってブレグジット反対派で占められ、離脱強硬派のボリス・ジョンソン外相(当時)のことを米国の大統領候補であったドナルド・トランプに準えて口汚く罵ることがある種の挨拶にすらなっていたことを思い出します。知識人と一般庶民の政治意識の分裂は、米国のみならず英国でも同時に見られたのです。
いい悪いは別にして、アイデンティティ・ポリティクスが世界中至るところで広まっていけば、そこら中で、様々な社会的軋轢や対立が可視化され表面化されていくに違いありません。グレーバーは、こうした米国社会に潜在的に渦巻いていたアンチ・エスタブリッシュメントの感情を捉え、これを利用する形で「ウォール街を占拠せよ」運動を仕掛けました。
アンチ・エスタブリッシュメントの人々がよく用いる言葉に”rigged”という言葉があります。我々の社会はごく一握りの者たちによって“仕組まれている”というのです。実際、サンダースもトランプも頻繁に、米国社会に関して“rigged”と形容していました。トランプは大統領選挙の際に、”The United States is rigged!”と言っていましたし、サンダースも同じく、”Top 0.1% of Americans control our country. This is rigged system!”と叫んでいました。
右も左も一様に我々の社会は何らかの存在によって”仕組まれて“いると主張し、その主張が極端に誇張され、最終的には根拠定かならぬ”陰謀論“めいたものまでまことしやかに拡散されていく状況になっています。しかも、メディアの選択が自己都合でできてしまうものだから、結局「自分の見たいものだけしか見ない」という「情報の島宇宙化」現象が起こり、メディアに触れてはいるはず現代人が互いに異なる情報を”真実“として受け取っているために対話が成り立たないという事態が方々で散見されます。
特に、投資の世界においては情報が極めて重要な役割を担います。ところがその虚実ないまぜの情報が氾濫すればするほど、投資判断に迷いが生じる。情報の取捨選別に苦心する所以です。インターネット上には、怪しげなというより、ほぼ100%詐欺案件であろうと思われる“投資話”が氾濫しています。
一昔前ならば安易に飛びつくことはしないだろうと思われるような胡散臭い儲け話にもすぐに飛びついてしまう人が後を絶ちません。結局、「自分の見たいものだけしか見ない」という「情報の島宇宙化」によって、極めて特異な情報ばかりに捕われ、ある種異様な世界に誘われていくという人がいます。
そうならないためにも、最低限のリテラシーをもつ必要があります。ネットにある情報も有用なものもあれば、明らかにおかしなものも多い。紙媒体も変なものもありますが、一応編集者の編集工程が介在しているだけマシかもしれません。いずれにせよ、ある程度信頼性の高いと思われるところから、それも一つではなく二つ、三つと様々な情報に触れながら、理屈として成り立つものであるのかを精査しながら判断する訓練を積むことも大事なことです。