先月末、京都市中京区に本店を置くイノダコーヒ(イノダ“コーヒー”ではない!)が、投資会社アント・キャピタル・パートナーズが運営するファンドに株式譲渡したとの報道が流れました。後継者がいないため、事業承継が目的の株式譲渡のようです。創業家出身の猪田浩史会長が保有する株式をファンドに譲渡した上で会長職から相談役に退き、前田利宜社長は続投、更にファンド側から新たな取締役が就任することになったわけですが、いずれにせよ、「イノダコーヒ」の社名は維持され、店舗の営業も継続されるとのことです。
河原町三条の六曜社や百万遍の進々堂と同様、学生時代から三条堺町の支店にも足繁く通っていた者としてこの報道には驚くばかりでしたが、大きな円形テーブルの真ん中で数名のベテランバリスタが手際よくコーヒーを入れていた光景が今も脳裏に浮かびます。訪れたことがない方でも、数年前にNHK-BSプレミアムで一連のシリーズ物として放映された番組「京都人の密かな愉しみ」の「木屋町珈琲夢譚」というエピソードの中で登場したこともあって、見たことがあるという方がおられるかもしれません。
イノダは昭和15(1940)年に創業。京都市中京区の三条堺町の本店(三条支店の目と鼻の先)をはじめとして、京都市内の6店舗と札幌、東京、横浜、広島にも店を構えています。文豪の谷崎潤一郎が愛した喫茶店であるとは既に知っていましたが、どうやら俳優の高倉健も通っていたという噂はどうやら本当のようです。
創業家の保有する株式を譲り受けたアント・キャピタル・パートナーズは、主として日本国内における非上場株式等への投資を行う投資会社で、国内の中堅・中小企業の事業承継問題や株式分散問題を解決し、当該企業や経済の活性化に資する投資を実行に移し、その運用額は2000億円を超えるようです。最近、俄かに注目されてきた事業M&Aも、後継問題に悩む中小企業のニーズに応えるスキームの提供が期待されてのことです。
もっとも、M&Aについては昔からあったわけですが、日本社会ではさほど浸透してこなかったというのが現実です。しかし、後継問題だけでなく、相続の発生のために株式が分散化してしまった老舗企業の抱える問題にも対応できるスキームとしてM&Aが注目されつつあることは望ましいことであると同時に、スキームが複雑化すればするほど、これを悪用しようとする者も現れることから注意を要する点が増えてくることは致し方ありません。非上場企業の株式の流動化にも資する点で、肯定的に捉える意見の方が多いことでしょう。
事業M&Aについては注目されるようになったわけですが、不動産M&Aとなると、馴染みが薄いという方がほとんどであろうと思われます。不動産M&Aとは、法人保有の形で複数の不動産を所有する形態が多数見受けられる状況に対応して、個々の不動産の処分の形をとるよりも法人の株式の譲渡を通じて実質的に不動産の取引を行う際に用いるスキームです。
この不動産M&Aは、実質的に複数の不動産を一度の手続きで移転させるための簡便な手法として利用され始めています。資産管理会社の譲渡については、単純株式譲渡やLBO方式を利用した譲渡に大別されますが、単純な株式譲渡のスキームは仕組みが単純ゆえに取り組みやすいというメリットがあります。
株価が高く評価されてしまうために株主の中で相続が起きたら相続税納税に困窮しそうな会社、イノダのように後継者がいない会社、株主が分散して統一的意思決定に困難を抱える会社、本業よりも不動産業が中心になっている会社、大規模修繕を控えていて借入金に困窮している会社、株主が事業をやめたいと考えている会社、子に平等に現金として相続させたいと思っている会社など、都心部の老舗企業・店舗の創業家一族は相当な数に上ります。
そういう企業は、相続とそれに絡む事業承継に関して一つや二つ問題を抱えていることでしょう。二代目オーナーの時代になると、店舗や事務所あるいは工場などの不動産を会社所有で取得しているだけでなく、本業の利益は不動産につぎこまれ、会社財産のほとんどが不動産になっているのが実態というところも多い。不動産の有効活用でビルを建て、その一階で本業の店舗や事務所を営み、上層階を賃貸に出し、最上階にオーナーの住居を構えるというのもよく目にする光景です。
オーナー会社において一等地の不動産を株による支配を通じて間接的に所有しているのは、相続税法上の課税標準の評価は株式の評価に基づくために評価額が低くなる傾向にあるからですが、それゆえ相続の度に株主が増え、利害関係が複雑化するという問題も抱えます。会社所有とはいえ、一等地の不動産を所有していれば、含み益により株式の評価が高騰する場合もあり、非上場会社の株式は流動性がないために、下手をすると相続税破産というケースも考えられます。
一等地の不動産を所有している老舗企業や店舗は、資産価値の高い不動産を所有しながら意外に収益性が低い。株主構成が複雑化すれば、建替えや有効活用、管理運営などについても意見がまとまらないジレンマに陥っているケースもあります。つまり、非上場企業の所有する不動産の多くが資産価値は高い(相続税は高い)のに、老朽化などで収益性が相対的に低く、共同経営のために意思決定が困難な状態にある会社にとっても、M&Aのスキームを用いた不動産の処分方法が有効であるケースもあります。
M&Aといえば、通常は事業M&Aが想起されがちですが、複数の不動産取引においてもM&Aのスキームが利用できるということを、特に、複数の不動産を法人保有の形で所有している投資家の方々は頭の片隅に入れておかれるとよいのではないでしょうか(なお、弊社では、不動産取引に際してM&Aのスキームの活用に関心のある方のご質問・ご相談を承っております)。