ディディエ・ソネット博士(1957年-)は、スイス連邦工科大学チューリッヒ校の物理学部教授兼スイス金融研究所教授で経済物理学の開拓者とも言うべき存在です。また実務面でも、キャピタル・ファンド・マネジメント社の顧問を務めています。
先日、本ブログにおいて不動産の金融化傾向の必然性について述べましたが、そこでは金融工学・数理ファイナンスが大活躍しています。中でも、ソネット博士の経済物理学は極めて特異な臭気を放っています。物理学者でかつ金融理論を専門にするソネット博士は、複雑な金融システムにおける市場の暴落を数学・物理学の理論、なかでも複雑系の理論を駆使して説明・予測する理論を探求していることで夙に知られています。
そのソネット博士は、市場の暴落について以下のような指摘をしています。1つ目は、それは決して起こり得ないという前提であったことです。我々は、終わりなき成長・低失業率・低ボラティリティに支えられた“経済的緩慢”の時代に突入したこと。2つ目は、それが稀な“ブラック・スワン”的事象であり(ナシーム・タレブが指摘する“ブラック・スワン”のことです)、予測不能な波であったということ。
ソネット博士は、市場の崩壊は予見可能であり大惨事を回避することが可能だと主張します。金融危機リスク指数(CRI)を開発したソネット博士は、「この観測所の目標は、バブルを診断しそれが崩壊する瞬間を予測することです」と述べています。
ソネット博士は、そこで“ドラゴン・キング”の理論を発展させました。これは、1987年や1998年の株式市場の暴落のような極端な事象を対象にしています。例外的であるにもかかわらず、“ドラゴン・キング”の理論は、「それらを予測可能、おそらくは制御可能にする特定のメカニズム」の結果であると言うのです。“ドラゴン・キング”の理論の根本的なメカニズムは、最終的に吹き飛ぶことになる「バブルへ至る緩慢な成熟」であると説明されます。
重要な兆候の1つは、投資収益の「超指数関数的成長」です。1年目で5%、2年目で10%、3年目で20%というように続く、2007年以前にバブルを膨らませた成長のレベルでした。正のフィードバックメカニズムは、この成長を確実に崩壊するレベルにまで押し上げました。これは、クラッシュまたは調整の開始という形で発生する可能性がありますが、重要なのことは、それが予測可能であるという点です。
ソネット博士は、自身の研究から得られた結論として、香港ハンセン指数が僅か数年で300%増加した後に2007年末までに調整されるだろうと金融関係者に告げたところ、「まさか、そんなこと起きるわけがない」と言下に否定されたことを回顧しています。ところが、その3週間後、ハンセン指数は20%暴落し、2008年末までにその価値の70%が失われました。その他にも数多の事例があります。
ソネット博士は、市場のバブルを量的緩和政策に結びつけます。中央銀行は民間部門から資産を購入することで潤沢な資金供給を行い、それによって新しい生産的なビジネスへの投資を奨励していく。しかし、ソネット博士に言わせると、これは3つ目の“神話”であり、国債の急増・銀行の過度の役割・短期的な成長への焦点という問題を無視していると言うのです。
量的緩和はバブルに繋がる可能性があり、それは短期的な自信を植えつけるかもしれないが持続可能ではありません。経済は、決して「貨幣の永久機関」ではないのだというわけです。ソネット博士は、代わりにバブルを予測・防止・管理する方法を検討する必要があると主張します。これらには、より厳格な金融政策と金利の管理・信用へのアクセスの減少、金融業界への強力な規制が含まれます。
壊滅的事象は、他の事象集団とは統計的に異なる特性を持つ“外れ値”であり、重要なカスケードの増幅を伴うメカニズムに起因します。これらの壊滅的事象または“破裂”、つまり静止状態から危機への突然の移行をモデル化し予測するための統一的アプローチを、ソネット博士は、主として非平衡系物理学、複雑系の科学に基づく一般理論の探求を通じて追求しています。
ロケットの高圧タンク・地球表面の断層・市場に共通するものは何か?一見、無関係に思われるもの同士に対して一貫した物理学の用語で説明を提供することができると考えます。ソネット博士の研究では、それらは全て非常に小さいものから非常に大きいものまで、多くのスケールで同様のパターンを発達させる自己組織化系として、ほぼ同じ基本的な物理用語で説明できることになります。3つ全てに、破裂・地震・衝突などの極端な挙動が発生する可能性があります。
このような複雑系の中心的特性は、構成要素間の非線形的相互作用の反復に起因する、豊かな構造を持つコヒーレントな大規模集団挙動発生の可能性です。全体は、その部分の総和と等価ではありません。ほとんどの複雑系は解析力学の記述に従わず、“数値実験”によってのみ探査できると広く信じられています。
アルゴリズムの複雑さという文脈で、多くの複雑系は既約性があると言われています。それらの進化について決定する唯一の方法は、実際にそれらを時間発展させることです。したがって、複雑系の“動的な”未来の時間発展は本質的に予測不可能です。しかし、この予測不可能性は、多くの有名な事例によって例示されるような新しい現象の予測のための科学的方法の適用を妨げるものではありません。
複雑系は本質的に予測不可能であるという見解は、地震予知の問題など具体的な予測アプリケーションで俄に説得力を持って擁護されています。信頼性の高い地震予測スキームを見つけるために、このスキームは地震や自己組織化臨界現象に基づいています。この“フラクタル”の枠組みでは特徴的なスケールはなく、地震の大きさのベキ乗則分布は大地震が止まらなかった小さな地震に他ならないという事実を反映しています。したがって、それらの核生成は、全てを予測できるわけではない多数の小さな地震の核生成と異ならないため、それらは予測不可能なのです。
自然科学および社会科学で登場する複雑系は、進化の特徴的な時間スケールと比較して短い時間間隔で発生する稀で突然の遷移を示すことが判明しています。このような極端な事象は、ほぼ完全な均衡によって隠されている根本的な“力”を表現し、複雑系を科学的に理解する可能性を提供しています。これら複雑系の長期的挙動は、稀な壊滅的事象によって大部分が制御されることが多いことを理解することが必要です。
瞬時に数兆ドル吹き飛ぶ可能性のある金融危機が迫り、投資家の心理状態が形成されていきます。同様に、政治的危機と革命は長期的な地政学的景観を形作るし、我々の個人的な生活でさえ、長期的にはいくつかの重要な決定や事象によって形作られます。
予測を導くために取り組む必要のある未解決の科学的問題は、壊滅的な性質の大規模なパターンが相互作用のルールが識別可能で既知であると推定される大規模な一連の相互作用からどのように進化するかという点です。
様々な危機に共通する要素は、それらが集合的プロセスから生じていることです。多くのスケールでのインタラクティブな非線形的影響の反復は、漸進的に蓄積されていき、やがては危機に至ります。
この考え方が、何故に投資ゲームを理解するのに有用な視点を提供しているのか。肝心の点については後編で展開してみたいと思っています。乞うご期待。
(後編につづく)