Safe Haven

3月10日、任期満了を迎える日本銀行の黒田東彦総裁は、最後の金融政策決定会合終了後の記者会見において、過去10年の大規模金融緩和について、物価が持続的に下落する意味でのデフレではなくなっていると指摘した上で、金融緩和の副作用の面よりも、経済に対するプラス効果が遥かに大きかったとの認識を示し、総じて「成功だった」と総括しました。

黒田総裁の下での日銀の金融政策は、長短金利操作付量的質的金融緩和策というものであって、以前のブログでも述べた通り、主として、長短金利を操作するイールドカーブコントロール(YCC)とオーバーシュート型コミットメントの2つの政策から構成されています。今回の会合では、大規模な金融緩和策の現状維持を決めたとのこと。

次期総裁を、経済学者で東京大学名誉教授の植田和男元審議委員に、雨宮正佳、若田部昌澄両氏の後任の副総裁には、内田真一理事と氷見野良三前金融庁長官を起用する政府の人事案が10日、国会で同意されました。

次期総裁に就く予定の植田和男博士は、これまでの金融緩和を変更する当面の予定はない旨を表明し、金融引締めに動くのではないかとの一部の懸念をとりあえず払拭した格好になっていますが、個人的には、YCCに関しては何らかの変更を余儀なくされるのは時間の問題だと思われますので、否が応でも、いわゆるアベノミクスの実質的修正を迫られることになるのではないか。

海の向こうの米国はといえば、思うようにインフレが鎮静化せず、昨年末のCPI上昇率の鈍化のために俄かに楽観ムードが蔓延しつつあった市場の声の中には、FRB(米連邦準備制度理事会)の2023年中の利下げはないだろうという見方に再び疑問が呈されています。これもあくまで個人的な見解ですが、パウエルFRB議長は6.5%までの利上げくらいは覚悟しているのではないかと踏んでいます。

具体的な会社名は差し控えますが、とある世界的な金融機関は預金の引き出しが相次ぎ、筆頭株主も全株式を売却処分するわで、株価は一昨年よりも95%ほど下落していますし、米国の消費者の自動車ローンやクレジットカードの未払額が激増するわで、足元では大変な状況になっています。

2023年1月末、米国のフロリダ州マイアミに本部を置くUniversa Investments(ユニバーサ・インベストメンツ)において、同社顧問を務めるナシーム・ニコラス・タレブ博士(世界的なベストセラー『ブラックスワン-不確実性とリスクの本質』などの著者)が、「ディズニーランドは終わり、子供は学校に戻る」と婉曲的な表現で、歴史上最も奇妙なバリュエーションを示している金融市場や不動産市場等の現状に対して述べていました。この表現は、要は、「遊びで浮かれていた時間は終わりを告げ、厳しい現実の世界が眼前に突きつけられるだろう」くらいの意味でしょう。事実、タレブ博士は、「痛みを伴う現実への回帰に備えろ」と付け加えているわけですから。

タレブ博士の言っていることは至極まっとうなことであって、要は、超低金利時代におけるイージーマネーが巨大な資産バブルを作り出し、不平等を加速させ、FRBが以前のような水準に金利を引き上げる一方で、投資家は高金利の世界に戻る用意がほとんど整っていないとの見解を示したわけです。低金利下で膨らんだ「腫瘍tumor」は、ビットコインから不動産に至るまで散見され、そうした「幻想の富」は推計5000億ドルを下らないだろうとのこと。

タレブ博士が、ニューヨーク大学クーラント数理科学研究所の特任教授を務めていた時の学生であった、現在ユニバーサ・インベストメンツのマーク・スピッツナーゲルCIO(最高投資責任者)は、債務の膨張ぶりから、市場は「一触即発の時限爆弾」を抱えていると述べていました。

タレブ博士とスピッツナーゲル氏の投資戦略は、確率論に関する深い省察からくる、しかし主流派の理論とは真っ向から対立する戦略であり、万人向けというわけではないということを断った上で、スピッツナーゲル氏の著書を紹介したいと思います。その著作は、2013年に出版されたSafe Haven – Investing for Financial Stormsで、Wileyから出ており、まだ邦訳はありません。直訳すれば、「安全な避難所-金融に吹き荒れる嵐に備えた投資」とでもなるでしょうか。

ただ、間違っても投資のハウツー本ではないという点を強調しておきます。スピッツナーゲル氏自身、Safe Havenのポートフォリオを作成する方法についての洞察は与えないと堂々と書いていますから。むしろ、自分自身を見つける必要があると。それくらい、自分で考えろと言うわけです。冒頭から、哲学者フリードリヒ・ニーチェの『ツァラトゥストラはかく語りき』や晩年の『この人を見よ』の言葉が登場します。しかし、その分、安っぽい投資解説本にはない、偶然性や不確実性に対する深い洞察に富んだ世界観の一端に触れることができるのではないかと思われます。

ポートフォリオにおいて、リスク軽減資産とディフェンシブ資産はどのような役割を果たすことができるのか?そう問います。

Safe Haven – Investing For Financial Stormsの中で、スピッツナーゲル氏は、そうした問いに答えようとし、リスクを緩和する資産とは何かを説明し、そのような資産がリスクを軽減し、リターンを高める方法の理論的枠組みを提示しています(その考え方に基づいた、ユニバーサの投資戦略は、例えば、2020年3月期には約3600%、その次には約4150%という驚異的なリターンを上げました。

通常のファイナンス理論によると、高いリスクを受け入れることによってのみ高いリターンを期待できるとされます。誰もが同意しているかに思えるこの理屈に対して、スピッツナーゲル氏は、これは明らかに間違っていると主張し、リスク軽減がリスクを下げることによって富をどのように高めることができるかについての理論的枠組みを設定します。

ここでのスピッツナーゲル氏のアイデアは直感に反しており、ディフェンシブ資産が投資ポートフォリオでどのように、そして、なぜ役割を果たすのかを説明しています。リスクを軽減資産はどのように価値を付加できるか?

スピッツナーゲル氏は、サイコロゲームを使用して、理論的には負の算術リターンを持つ資産でさえ幾何リターンを増すことができると説明しています(本書の大きな見どころの一つです。そのためには、算術平均と幾何平均の違いについての基本的な理解が必要です)。大きな失敗を複合化して回避することが鍵となります(リスク軽減)。

多くの投資家は、株式とほとんど相関しない資産を持つことの価値を過小評価しています。リスク軽減資産の算術平均はS&P500よりも低いですが、S&P500を所有しているだけの場合と比較して、幾何平均を高めることができます。

リスク軽減の一例が保険です。家に保険をかける時、あなたは保険会社に保険料を支払う必要があります。したがって、保険は責任であり、富の創造に対するトレードオフとされます。スピッツナーゲル氏は、このようにする必要はないと主張しています。負のリターンの資産であっても、正しく行われれば、ポートフォリオの価値を高めることができるというのです。

スピッツナーゲル氏が取り上げるリスク軽減戦略の簡略例は以下のようなものです。

①S&P500に80%、金に20%

②S&P500で50%、トレンドフォローCTAで50%

③S&P500で66%、長期国債で34%

④S&P500で85%、スイスフランで15%

シーケンスリスクを相殺するには、リスク軽減資産が必要です。市場は平均して約10%上昇していても、リターンのシーケンスが異なる場合、遥かに少ない結果になる可能性があります。この点は、ドルコスト平均化の例を考えればわかることです。

スピッツナーゲル氏は、師のタレブ博士とこの点は同じく、世間で流通しているモダン・ポートフォリオ理論(MPT)や分散投資、シャープレシオ等の、ファイナンス理論の世界ではスタンダードとなっている理論や概念について悉く否定的です。しかし、それを闇雲に勘と情報だけに頼って何となくやり過ごしている「はらわた相場師」による批判ではなく(これは論外の中の論外でしょうが)、確率論に対する深い洞察からくる、不確実性や偶然性に関する哲学的・数学的帰結であるという点に注目すべきでしょう。

その詳細な内容及びテクニカルな点についての解説は、また他日を期したいと思います。

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